ふふふっ。哲学というと、にやけてしまう。(なぜ私が笑ってしまうか分かる人は、数少ない私の友人のなかでも一人くらいしかいないと思うが。)
2週間ほど前でした。深夜、久しぶりにNHKを見ているとアメリカの大学の講義の番組を放映していた。ハーバード白熱教室。相変わらずヘンテコなタイトルだけど。政治哲学のマイケル・サンデル教授の、Justice(正義)という講義です。あまりにも人気な講義で、ハーバードが始めて講義を公開することに踏み切ったそう。
Youtubeにもありました。英語ですが、こちらが第1回です。
確かに、とてもおもしろい。講義の冒頭で、このような質問が提示された。
あなたは路面電車の運転手です。前方に5人の人がいるのを発見したので停車しようとしたがブレーキが壊れていた。このままではその5人は必ず死んでしまう。ふとわきを見ると、分岐する線路の先に1台の列車があり、そこには1人だけがいた。ブレーキは壊れているがハンドルは効く。
さて、あなたは直進しますか、それとも脇の路線へハンドルを切りますか?
挙手をさせると、多くの生徒は5人も犠牲にするならせめて1人に....と思い横の線へ行くことを選択していました。なぜそちらを選んだのか、様々な考えがあると思います。
さてここで、つぎの質問。
あなたな運転手ではなくて、橋の上からその様子を見ていました。ふとわきを見ると、とっても太った人がいました。その人を突き落とすと衝突を避けることができ5人を救うことができます。
さて、あなたは横の太った人を突き落としますか?
そうすると、学生達は突き落とさない方を選びました。同じように、犠牲者を減らし数としては4人の命を救うことはできるのですが、なぜかこちらの場合は5人を助けることができない。
どちらのケースにしても、道徳的に正しいのはどちらなのでしょうか。それぞれの選択の理由として、傍観者を当事者にしてしまう行為、原因が物なのか人による能動的な行為なのかの違い、さまざまな要素が考えられます。
哲学は、普段私たちが慣れて疑問に感じないとに対して、別の見方をすることによって慣れた環境から引きはがすというリスクがあるともいています。これらの疑問に答えるには、古典の哲学書をいくつも読まなければならないらしい。空をつかむような、哲学書をね。(お好みの方は、NHKのサイトでテキストを紹介してくれています。私は読みませんが。読めません。)
4月から始まった番組だったらしく、私がこの番組を見つけた時は既に第3回でした。そこはさすがNHK、反響が大きかったのか連休前にそれまでの放送を再放送してくれました。録画して第1回から見ています。
先が楽しみです。あの、哲学なのに。
2010/05/11
2010/05/08
今朝のゴミ出し
今朝、資源ゴミ出しをしているときに、唐突に思い出した言葉。「唐変木(とうへんぼく)」。
段ボールをかかえて階段を下りているときに、母の「この子は『とうへんぼく』だねー」と言われたことを、なぜか思い出しました。幼稚園くらいとか小学校くらいまで言われていたのではないでしょうか。もしかしたら、祖母かもしれません。祖母は私が小学校4年生のお正月に亡くなっています。
改めて調べてみると、唐変木(とうへんぼく)(Googleで検索)とは偏屈の意味とのこと。
ふふふ、言ったのは祖母かもしれない。そんな気がしてきた。三つ子の魂なんとやら。友達や周りの人、環境のおかげでずいぶんと角が取れてきましたが、にこにこしながらも、今もちょっと違った視点は持っているかも。
なんでこんなこと思い出したんだろう。
大きな段ボールをかかえて狭い階段を降りながら、左右を持ち替えたかったのです。そうしたら段ボールの幅が壁よりも広すぎて、左右を返せませんでした(右脇から左脇に抱えなおす)。でもどうしても返したくて、縦横の角度を変えて、最終的には持ち替えました。多分、思い出したのはその時です。たった数秒で階段は終わるのに、なぜか持ち替えたかった。壁につかえた時点で諦めればいいのに、やり直してまで持ち替えた。そこに何か意味があったのかなぁ。多分ない。だから「とうへんぼく」か。
段ボールをかかえて階段を下りているときに、母の「この子は『とうへんぼく』だねー」と言われたことを、なぜか思い出しました。幼稚園くらいとか小学校くらいまで言われていたのではないでしょうか。もしかしたら、祖母かもしれません。祖母は私が小学校4年生のお正月に亡くなっています。
改めて調べてみると、唐変木(とうへんぼく)(Googleで検索)とは偏屈の意味とのこと。
ふふふ、言ったのは祖母かもしれない。そんな気がしてきた。三つ子の魂なんとやら。友達や周りの人、環境のおかげでずいぶんと角が取れてきましたが、にこにこしながらも、今もちょっと違った視点は持っているかも。
なんでこんなこと思い出したんだろう。
大きな段ボールをかかえて狭い階段を降りながら、左右を持ち替えたかったのです。そうしたら段ボールの幅が壁よりも広すぎて、左右を返せませんでした(右脇から左脇に抱えなおす)。でもどうしても返したくて、縦横の角度を変えて、最終的には持ち替えました。多分、思い出したのはその時です。たった数秒で階段は終わるのに、なぜか持ち替えたかった。壁につかえた時点で諦めればいいのに、やり直してまで持ち替えた。そこに何か意味があったのかなぁ。多分ない。だから「とうへんぼく」か。
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